REPORT

ならはみらい10周年企画 「創業期」対談

一般社団法人ならはみらいは、2024年に設立10周年を迎えました。10年という節目にあわせ、ならはみらいのスタッフ間で「これまでに歩んできた10年間を振り返り、大切にし続けたい価値観や考え方を改めて見直そう」と、10年を4つの時代に分け、振り返りの対談を実施しました。
法人設立、商業・交流施設の運営スタート、移住定住促進事業本格開始を4つの時代の区切りとしています。

このレポートでは、第2期となる「創業期」の対談をお送りいたします。飲料水の放射線量の測定や住宅再建のためのコールセンターなど、住民が帰町するためのサポートや、帰町後のコミュニティ形成支援事業などを行った時期です。

楢葉町の復興のために、何をすべきか。“きずな・安心・活力” を柱として、走りながら考えることを求められた創業期。ならはみらいの為すべきことを手探りで求める日々を支えたのは、職員の“本気の熱意” でした。創業期を駆け抜けた当時の職員4 名にお話を伺いました。

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<「創業期」対談メンバープロフィール>
(左から)
新田 勇太
元事務局スタッフ( 設立~ 2017.3 )
現在は楢葉町役場農林水産課

古市 壽正
元事務局長( 設立~ 2016.3 )

山本 尚樹
元事務局スタッフ( 設立~ 2017.6 )
※東京電力からの派遣職員

歳森 健司
元事務局次長( 設立~ 2018.3 )


「ならはみらいとして何をすべきか」
0 から1 をつくるための
答えを探した創業期

――みなさんがならはみらいと関わり始めた時のことを教えてください。

古市 ならはみらいの設立総会が開催されたのは2014年6 月30 日ですが、その準備を進めるために、先行して動いてくれていたのが山本さんと新田さんです。

山本 そうですね。私たちが働き始めたのは確か、2014年5月だったと思います。私は東京電力からの派遣社員としてメンバーに加えてもらいました。社内で派遣社員として声がかかったときは、震災直後からJ ヴィレッジに応援で来ていたこともあり、意欲に燃えていました。

新田 私は震災前までは浪江町で歯科技工士をしていましたが、震災後は会津に避難し、行政の緊急雇用枠で働いていました。楢葉町に早く戻りたいという思いを抱えていたので、いわき市の出張所でまちづくり会社が始動するから働かないかと声をかけてもらった時は、ぜひともと答えましたね。

――事務所を立ち上げるところからのスタートだったのですね。

新田 当時は、いわき明星大学(現在は医療創生大学) に、楢葉町役場の出張所がありました。その関係で、ならはみらいの事務所も大学会館3階に設置されていたのです。ならはみらいが入る前は役場の仮眠室となっていたため、ベッドを運び出すことからの仕事でした。事務所も備品もマニュアルも、本当に何もない状態からのスタートでしたね。

山本 翌月の設立総会に間に合うように、資料を準備したり、当日の進行の手配をしたりと、あの時はふたりで必死に準備を進めました。

――古市さんと歳森さんはいかがですか。

古市 私は震災後に町役場を定年退職していたのですが、楢葉町の力になれるのならと、事務局長の仕事を引き受けることにしました。当時はまだ町民がみな避難しており、町役場がありとあらゆる業務を担っていた状態です。まちづくり会社で仕事を少しでも引き受けて、行政の負担軽減に貢献したいとの思いでした。

歳森 私は23年勤めていた首都圏の企業を退職して、楢葉町に来ました。求人募集を見つけた時、ちょうど私は、自分の在り方を見つめ直そうとしていた時期でした。培ってきたキャリアを人のために役立てたい、それなら福島県の復興に役立てよう。そこで見つけたならはみらいの職員募集が、自身のキャリアや思いとマッチングしたのです。

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――そして2014年6 月の設立総会を迎え、ならはみらいが始動したのですね。始めはどのような仕事をしていましたか?

古市 初年度は、“ 何をすべきか” を模索すると同時に、行政から求められたことを粛々と進めていましたね。

歳森 設立時に決まっていたことは、設立趣意書にある“楢葉町の再生のために新たなムーブメントを起こしていく触媒的な役割を果たし、町民や地元企業が行政と協働して行うまちづくりを主導する”という方針のみ。目的と役割を、具体的にどのように成し遂げていくのか。私たちも含め、誰にもわかりません。そのため、走りながら考えるほかありませんでした。

――当時は行政から求められた仕事に応えることが主だったのですね。

古市 町の行政からだけでなく、町外の方々からも、やってほしいことのリクエストやオファーが舞い込んでくることがありました。

山本 当時は混乱していた時期です。楢葉町や町民のニーズと、町外からの「ぜひ支援をしたい」という声の両者をうまくマッチングさせるために、「ならは応援団事業」を立ち上げました。

――ならはみらいの方向性が定まるきっかけとなった事業はありましたか?

古市 一番のきっかけは「町民号」の開催です。町民号とは、町民を対象にした団体旅行で、震災前から継続的に開催されていました。「町民同士のつながりを取り戻すためにも、ぜひ町民号の開催を取り仕切ってほしい」と町役場からオーダーをもらい、2014年に伊勢志摩や富士山の2泊3 日のツアーを企画しました。その結果、大型バスを複数台チャーターするほどの参加者が集まりましたね。

新田 町民号の行程の中には、職員の人脈とアイデアを活用して、歌手による歌謡ショーや各種出し物なども最大限に盛り込みました。

歳森 心に残っているのは、2014年の町民号の際に発表した「楢葉からの手紙」というスライドショーです。詩の朗読と合わせて、震災前後の楢葉町の写真を映し出すものです。そこに込めた“ 楢葉町は町民の帰りを待っている” というメッセージは、多くの町民の方に伝わったのではないかと思います。

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山本 翌年以降も、ならはみらいが町民号の運営を担わせてもらいました。この町民号によって、ならはみらいの存在が町民の方に少しずつ浸透していったのではないでしょうか。

――ならはみらいで事業を企画する際、何を参考にしましたか?

古市 行政から伝えられるニーズに加えて、仮設住宅を個別に訪問する連絡員さんが集めた“ 町民の声”も参考にしていました。

歳森 当時の連絡員さんは、毎日町民のお困りごとの聞き役をつとめていらっしゃいました。ならはみらいにとっても、連絡員さんの存在は大変大きなものでしたね。

――行政の声と、町民の声。それぞれを基に、ならはみらいの方針を検討したのですね。

古市 そうですね。職員のディスカッションは白熱しました。

歳森 さまざまな背景をもつ職員が集まったからこそ、多角的な意見や考え方が生まれました。行政が求める役割を深めていくべきか、新しいものをどんどん提案していくべきか、ときには意見が衝突することもありましたよ。ただ、どの職員も“ 楢葉町をより良くしたい” と真剣でした。だからこそ、それぞれの考え方を本気でぶつけること、手と手を取り合って進めることができたのだと思います。今思い返すと、楽しい思い出ばかりに感じるのは、職場の人間関係に恵まれていた証です。

山本 町民の方が楢葉町で安心して暮らせるようにしよう。まだ帰還できない町民の方も、楢葉町との関係性を維持できるようにしよう。職員全員、目指していたゴールは同じでした。

――大変だった事業、ご苦労された思い出はありますか?

新田 避難指示解除になった年で、戻ってきた方や一時帰宅した方の癒しになればと、国道沿いに花を植える事業を行ったのですが……あの年はカンカン照りが続き、みるみる花たちが元気を失ってしまいました。そのため職員が、重いポリタンクを抱えて水やりに奔走した思い出があります。今となっては笑い話ですが、当時はかなり大変でしたね(笑)。

山本 当時はやったことがないことでも、何でもやっていました。私も派遣前は配電線の設計やシステム開発などの技術職だった関係もあり、ならはみらいで経理事務を行う際には、歳森さんにすごく助けてもらいましたね。その時々に必要とされるキャリアやスキルをもった人材が、バランスよく集まっていたのが素晴らしかったです。

古市 当時の山本さんは、ならはみらいの業務をこなしつつ、メガソーラー発電の新しい法人設立の準備にも尽力いただきました。職員それぞれの力、そして周囲の助けがなければ、成し遂げられなかったことが多々あります。

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――現在のならはみらいを見て、当時の活動が実を結んだと感じる部分はありますか?

新田 何かひとつ大きなことを成し遂げたというよりは、その時々に求められることに答え続けてきたから、今の姿があるのだろうと思います。当時は学生として町に関わってくれた方が、今はならはみらいの職員となってまちづくりに取り組んでいる姿を見ると、変わらずに受け皿としてあり続けている組織の意義を感じて、感慨深いです。

山本 この対談のために、久しぶりに楢葉町を訪れました。町民の方が戻り、住宅に暮らしの温もりがあり、田んぼに稲が色づいている姿を見て、ならはみらいが活動を続けてきた成果を感じました。まちづくりと聞くとハードの部分が注目されがちですが、ならはみらいはソフトの部分、心と心をつなぐ役割を果たせている点が素晴らしいと感じます。

――これからのならはみらいに、期待していることを教えてください。

歳森 立ち上げから今まで、歴代の職員が、“ その時代のならはみらい” だからできることを模索し続けて、今があります。今の職員、これからの職員も、ならはみらいの良いところは残し、何か違うなと思うことがあれば変えていけるように果敢にチャレンジしていってもらいたいです。

新田 きっと、ならはみらいはその時々で、自然とベストな形になっているのだと思います。“ きずな・安心・活力” の、決して変わらない柱をもちながら、地域の状況に柔軟に寄り添える組織であれば良いと思います。

山本 行政だけでは難しいこと、町民だけでは難しいことがあるかと思います。その両者の間をうまく縫い合わせられるように、人と人をつなぎ、仕事と仕事をつなぐ機能をこの先も担ってもらえたらと思います。これからもならはみらいを、応援し続けます。

古市 私たちがいた時代よりもはるかに多い職員を抱え、活動できる組織となったことを素晴らしいと感じています。これからも町民との距離が一番近い組織であり続けてくれたらうれしいですね。
(敬称略)

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